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新町獅子の歴史

 

歴史@

かつて、熊本市の藤崎八旛宮は熊本城の西隣の藤崎台にありました。

 

私どもの祖先はその鳥居元として、
毎年同宮の秋季大祭に獅子舞を奉納してきました。

 

西南戦争で同宮が消失し、現在の井川淵町に移転した後も変わらず奉納し続けています。

 

新町獅子は、熊本城築城とともに誕生したと言い伝えられています。
新町獅子の誕生に関する文献は今のところ見当たらないのですが、次のような資料があります。
細川家の資料「永青文庫」です。そこに、新町獅子について書かれている箇所があります。

そこには、

「(前略)新壱丁目より獅子を差出来候処、及中絶、今年迄六十一年に相成候由、
(中略)寛政五年八月」(市井雑式草書 乾・二九)

・・とあり、この年、寛政5年(1793年)から61年を引くと享保17年(1732年)となり、
この時代には新町獅子は確立されていたことになります。

 

江戸時代の新町獅子がどのようなものだったかは、
当時の絵巻物に中国風のデザインと服装が観られます。
その名残が現在の女の子の「唐人」姿で残っているのでしょう。

 

歴史A

新町獅子の舞には、「天拝」と「牡丹の舞」があります。
このうち「天拝」は、藤崎宮秋季例大祭の初日(9月11日)に、藤崎八旛宮神前においてのみ舞うもので、極めて式楽的要素が強くこの「天拝」奉納こそが、藤崎宮神事の一環を担うことであり、新町獅子が祭りに参加する意義なのです。


「天拝」は江戸時代から存在していたと言い伝えられています。

 

その後幕末か明治初期に、新町獅子は再び中断されました。
ここでは、西南戦争さらには倒幕、王政復古の政治変革が関係していると思われます。

 

その後復活したのは、1883年(明治16年)頃で、当時はまだ「牡丹の舞」はなく、道往きの囃しだけでした。

 

やがて、地元熊本の役者によって、獅子舞が伝授され、これが「牡丹の舞」の原型となります。

 

さらに、歌舞伎役者 市川右団次によって手直しされ、
こうして、「牡丹の舞」は明治期に完成し今日に至っています。
この舞が歌舞伎の影響を受けているのは、こうした事情によるものであります。

 

歴史B

20世紀になると、また二度にわたる中断が起こりました。
明治末・大正初から昭和4年(1929年)までがその一つ目で、二つ目は太平洋戦争末期でした。

 

しかし、戦後いち早く新町一・二・三丁目合同による「新町獅子協会」を結成し、復活が実現します。

 

とはいえ、衣装類など物不足のうえ、「祭りどころではない」という戦後復興期の世相から、人々の獅子に対する意欲が低下して、まもなく衰退の一途を辿ることとなります。

 

戦後の混乱が安定してくると、新町獅子をめぐるこうした状況を憂うる声が人々の間で
高まってきました。なかでも特に危機感をもっていた、八木寅吉の提唱で「新町獅子保存会」が結成されました。

これによって、経済的基盤が強化され、衰退しつつあった状況を一気に盛り返し、

現在の新町獅子の基礎が形作られました。

 

平成3年(1991年)には、小中学生による「子獅子」が結成され、
現在新町獅子を支える一つの柱となっています。

 

21世紀に入り新町獅子保存会は創立40周年を迎えました。
現在では、藤崎宮秋季例大祭の奉納にとどまらず、県外問わず各種イベントへも参加させていただいております。

 

今後とも、獅子舞という芸能を通じて熊本の地域文化に寄与していく所存です。

 

 

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